カミちゃんブログ

カミコロによる奇妙なブログ日記

fecha#29 12.8 martedì

※ 米米CLUB。※を探すと米米CLUBが出てくる。


はい!お疲れ様です。


群馬終了まで、あと2日となりました。


今日は久しぶりにポコチャで配信をしました。


群馬の湯畑、足湯、河原、近くの景色をお店しました。


なかなか楽しかったです。


忙しくて、行けて無かったので、行きました。足湯に入りました。気持ち良かったです。


でも寒くて、出るのが惜しかったです。


多分3時間近く配信してました。


充電の減りが半端ないです。配信終わったときで20%ほどでした。


でも、楽しかったです。また、時間あれば配信はします。


さて、今日は! 今日かー、何にしよ?


なんと、イタリアのシエナ外国人大学がオンラインを始めたそうです。


前から気にはなってました。


そのシエナ外国人大学のイタリア語教師養成科に興味があります。


イタリアにも行ってみたいです。フィレンツェが1番行きたいかな。あと、サルディーニャ島とか。


イタリア在中YouTuberエリコさんって知ってますか?だいぶ、前の投稿ですが、サルディーニャ島を観光する動画があります。


検索すればすぐ出てきます。


女性なんですが、綺麗な方です。


今回はその行ってみたいサルディーニャ島を少し書きます。


まず、アニメのジョジョの5部に出てきたことでも有名です。


サルディーニャ島はコルシカ島の南の地中海位置する島です。


コルシカ島はフランス領ですが、サルディーニャ島はイタリア領です。


でもコルシカ島で話されているコルシカ語はイタリア語の方言になります。


サルディーニャ島はイタリア語、サルディーニャ語を話します。


サルディーニャ語話者は大体300万人いるとされてます。


イタリア語の方言でもあります。


・歴史・

新石器時代からローマ帝国の時代にかけて、ヌラーゲ(Nuraghe)人が上陸し、生活しはじめた。この謎に満ちた民族は、紀元前20世紀頃、東地中海からやって来たものと推測されている。少しわかっていることは、エジプトの碑文に「海の民」という意味の名前で登場する人々を指しているということである。その碑文の研究によると、彼らは、サルディス(リディア)を出発し、ティレニア海にたどり着いた。そこで、サルデーニャに行く者とエトルリアに行く者に分かれた、ということである。しかし、サルデーニャ人の起源に関する理論のほとんどは、遺伝学的な研究と民族の移動状況を重要視している。遺伝学的な研究によると、サルデーニャ人は周辺地域の人々や若い民族とは異なり、前インド=ヨーロッパ人だとしている。新石器時代以降の遺跡の散らばりぐあい、点在範囲、その大きさを調べれば、島の大体の人口がわかり、また彼らがこの島のどこに上陸し、定着したかがわかる。


先史時代のサルデーニャは、ヌラーゲと呼ばれる独特の石造りの構造物に特徴づけられている。サルデーニャには複雑な構造のものから単純なものまで、大小7000のヌラーゲが現存している。最も有名なのはカリャリ県バルーミニのヌラーゲ遺跡、スー・ヌラージ・ディ・バルーミニである。このヌラーゲは紀元前1800年から250年頃にわたって造られ、紀元前1200年から900年頃に全盛期を迎えた。聖なる水場の隣に建てられ(例:Santa Cristina, Sardara)、墓の構造はドルメンと呼ばれる。この時代サルデーニャ人は既に、西地中海で交易を行っていたミケーネ人と接触していたことがわかっている。


エジプトを侵略した海洋民族シャルダナ (Shardana) とサルデーニャとのつながりは真偽が疑わしく、立証されていない。墓場 (Tombe dei giganti) には沈みかけの船をかたどった墓石があり、長い航海中に惨事があったことを示している。古代ギリシャで初めて地中海を西に航海したエウボイア人は、サルデーニャをHyknousaと呼んだ。のちにラテン化しIchnus(s)a(イクヌーザ)となった。ノーラ遺跡の石碑は、フェニキア人がこの島をShardenと呼んだ証拠となっており、これがSardiniaという名前の由来となっている。


スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)でサルデーニャはスペインからオーストリアに渡った。しかし、旧領回復を目指すスペインは1717年にサルデーニャに侵攻(スペインによるサルデーニャ侵攻)。四国同盟戦争(1718年 - 1720年)を経て、1720年にシチリア島との交換によりサヴォイア家が領有した。以後、イタリア統一の1861年まで、サルデーニャはピエモンテとともにサルデーニャ王国を形成していた。


フランス革命戦争中の1793年には、フランス共和国軍がサルデーニャ島に侵攻したが、サルデーニャ人によって撃退された(サルデーニャ遠征)。


サルデーニャ島の社会基盤の開発は遅れていたが、19世紀初期にカルロ・フェリーチェによる統治のもと、南のカリャリから北のサッサリに至る島の大動脈が建設され、いまでも彼の名がこの道につけられている。1861年にサルデーニャ王国がイタリア統一を果たして国名を「イタリア王国」と改めた。1883年にはカリャリからサッサリまでの鉄道が開通した。


ムッソリーニ政権下では、オリスターノ周辺の沼沢地が干拓され、最も成功した農村コミュニティとなったアルボレアの基盤が作られた。またムッソリーニは鉱業の中心地としてカルボーニアを建設した。第二次世界大戦後、石炭の重要性は低下し、観光業が盛んとなった。雇用を創出するための様々な施策は、安価な労働力をもっても埋め合わせることの出来ない高い運送費のために、これまでのところうまくいってはいない。


今日、サルデーニャは自治州であり、その歴史は言語と文化の中にいまだ息づいている。また注目すべきは沿岸部と内陸部の差異である。沿岸部は常に外部からの影響に対してよりオープンであった。今日サルデーニャは、船や飛行機の便がよい北部の海岸や島々(ラ・マッダレーナ、コスタ・ズメラルダ)と南部カリャリ周辺の海岸によって、最もよく知られている。


イタリアの一部であるサルデーニャの現在の通貨はユーロである。


鉱業では、かつてファシズム時代にカルボーニアが炭坑都市として開発され栄えたほか、今日でも金と銀の鉱山が島内で操業している。


現在はコスタ・ズメラルダに代表される観光業、工業、商業、サービス業、IT産業がサルデーニャの中心的な産業となっている。ヨーロッパのインターネットプロバイダーとしてトップ企業となっているティスカリ(Tiscali)は、1998年に前州知事のレナート・ソルがカリャリで設立した。またワインとローカル料理が有名になり、島の収入源として成長している。


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はい! どうでしたか? サルディーニャ島は比較的治安もいいし、魅力的なところがたくさんあります。


是非、行きたいですね!


では、失礼する!